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八戸市おがみ神社について(法霊神楽)

2013年04月01日

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法霊神楽は,青森県八戸市に伝承される民俗芸能です.

300年ほど前から山伏達により法霊社(現在のおがみ神社)に奉納されてきたという神楽です.権現と呼ばれる獅子頭を持って舞う権現舞が特徴で,一斉に歯を打ち鳴らす「一斉歯打ち」が勇壮的な神楽です.毎年5月に行われる神楽祭をはじめ,八戸三社大祭等で披露されています.1986年に青森県無形民俗文化財に指定されています.(三社大祭は,国の重要無形民俗文化財)

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住所:青森県八戸市内丸2丁目1-51(おがみ神社)
法霊神楽神楽士会により継承が行われている。練習場所はおがみ神社境内、毎週木曜日
祭祀:春祈祷(小正月ころ)・神楽祭(5月第ニ日曜とその前日)・三社大祭(8月1日から)

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動画1 法霊神楽 翁舞CG



動画2 法霊神楽 剣舞CG



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法霊神楽の歴史
法霊神楽は青森県八戸市にあるおがみ神社 に所属する神楽であり,「山伏神楽」に分類されます.法霊神楽の名称は明治以前,おがみ神社は法霊社と呼ばれていたことに由来します .山伏神楽は,「権現(様)」と呼ばれる獅子頭を持って舞う権現舞が特徴で,法霊神楽以外にも旧南部藩を中心に山伏神楽が多く残っています.

この山伏神楽とは文字通り各地を旅する山伏(修験者)が舞った神楽ですが,そもそもの起源は京都の祇園社で行われていた獅子猿楽が,修験者の祈祷の方便に仕組み直されたものでないかという説もあります.東北地方では,中世には各地を旅する山伏が当時の実力者から宗教活動を認められ,配札や獅子舞による祈祷を行ってきたようです.このころに山伏がおがみ神社に神楽を奉納したことが法霊神楽のはじまりだと思われます.近世になると各派山伏の祈祷や配札の範囲が決められました.近世にはおがみ神社に神楽が奉納されていた記録がありますが,土着した山伏によって舞われてきたのでしょう.

明治維新後,西洋化・近代化に加え,明治政府により神仏分離令,修験道廃止令などの宗教的な政策が実施されました.現在,我々がもつ神社に対するイメージは明治時代からの宗教政策の影響を受けています.修験であった法霊社も明治になっておがみ「神社」と名称を変え現在に至ります.また神楽を舞った山伏らも神職になるか帰農しました.その結果,山伏神楽は農民が舞う神楽となり,庶民の文化として各方面へ伝わって行きました.

八戸藩の総鎮守であった法霊社には,八戸藩内に散在していた山伏が法霊社を拠り所として集合し神楽を奉納していました.そのため神社に直属するまとまった神楽集団は存在していませんでした.昭和に入ってからは八戸市の大仏や旧南郷村の中野に伝わる神楽が御祈祷等の務めを果たしていました.1946年に神社に直属する神楽が無いことを惜しむ八戸の人々が八戸市の鮫二子石に伝承されていた神楽や大仏等の神楽を習い,神社直属の神楽として整備したものが法霊神楽です.そのため法霊神楽には鮫二子石の江刺家手と呼ばれる振る舞いと,大仏等の中山手と呼ばれる振る舞いが存在しています.したがって法霊神楽は小さな集落に残っている民俗芸能というよりは,その地域全体の民俗芸能という色合いを持ち合わせています.

法霊神楽は1986年に青森県無形民俗文化財に指定され,1998年には青森県の伝統芸能の継承マニュアル 作成対象ともなりました.現在も法霊神楽には神楽祭等の祭祀,氏子の家をまわって神楽を舞うという春祈祷等の伝統が残っています.また,おがみ神社の祭でもある八戸三社大祭(国重要無形文化財)においても舞われます.また,新幹線の開通祝いと言った行事はじめ,2010年には上海万博においても青森の神楽として披露されるなど,県を代表する神楽となっています.

おがみ神社について
法霊神楽は青森県八戸市にあるおがみ神社に所属する神楽です.(「おがみ」は「雨」の下に「口」三つ,その下に「龍」と書きますが,画面上では表示できない場合もあるので,ここではひらがなで「おがみ神社」と書いています.)

古くからの地元の人は神社のことを「法霊さん」と呼ぶそうでし.おがみ神社の縁起によれば,かつて法霊という高徳の慈悲深い僧がおり,近郷の人々を教化したので死後に八戸城本丸内にあった三崎社へ合祀されたと言われています.また,一説によれば法霊という修験者は五穀豊穣・雨乞い祈祷に対し効験顕著でしたが,ある年は雨が少なく,祈祷の効果も表れなかった.ついに法霊は三崎社内の池に投身し,わが身を犠牲にして祈祷した.すると,大雨が続き豊作になったので,その霊を三崎社に合祀し法霊明神と崇めたともいわれています.そのため,明治以前おがみ神社は「法霊社」「法霊大明神」「法霊大権現」等と呼ばれていました.

さて,修験僧法霊が祈祷を行ったのは1324~25年ごろと言うので,これが正しいとすれば鎌倉時代にはすでにおがみ神社の前身は存在していたと推察されます.おがみ神社は古くは八戸城本丸(現在の三八城公園内)にあったとされており,この辺りを昔は柏崎と呼んだそうです.また,おがみ神社に祀られているのは龍神です.龍神は水の神ですから,稲作等の農業の神としても崇められていました.もともとは柏崎の村の鎮守であったと思われます.

しかし,時代が下り1653年の盛岡藩の家老の日記によると,八戸御館神法領との記述があり,いつのころから「御館神」として扱われるようになっています.そして,八戸藩が誕生し,1666年ころ現在の社地へ移されました.やがて藩主の祈祷所,また藩の神としての地位を地位を占めるようになりました.

八戸藩時代のおがみ神社は八戸総鎮守の「修験」としてその地位を保っていたようです. 明治になり,神仏分離,修験廃止令が出されると法霊社は修験(寺)から「神社」へ姿を変え,名称も「おがみ神社」とあらためました.

八戸藩時代の記録によると,社殿は1748年に,再興されたと記録に残っています.現在神楽殿として使われている建物がこの当時の社殿であったと言われています.その後,さらに建て替えが行われ,現在の社殿はさらに77年後の1825年に建てられたものです.社殿・神楽殿とも文化財等には指定されていないが,八戸市に残る歴史的建築物としてはかなり古い時代のものであり,江戸期の八戸藩の面影を残す数少ない貴重な文化遺産です.


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