滝沢流南部神楽
2014年11月13日
滝沢流南部神楽の起源、分化派生、伝来については、詳細な記録や文献資料が現存していない。しかし、滝沢流南部神楽の保存地には、縄文時代中期の遺跡である糖塚貝塚や山の神神社もあるため、地区民の信仰を集めている。これらのことから、住民の災厄や五穀豊穣を祈る神事として法印の神楽が伝承されていたものと思われる。
明治維新の禁令により、滝沢流南部神楽の保持者であった修験団が解体され、一度伝承が途絶えてしまったが、大正五年八月、有志たちが集い、山の神神社の神楽再興について語り合い、地元出身で若柳町在住の千葉盛氏を師範として要請し、その指導のもとに賛同する会員らによって再興された。秋豊饒の里祭には各地区の祭礼に招かれて神楽を奉納し、喝采を受けていたという。特に「こわ」(発声)の曲調が良く、分かりやすいために初めて神楽を見る人たちにも親しまれていた。
やがて戦時体制による社会環境の変化も手伝い、再び衰微のやむなきに至った。しかし、戦後にかつて伝承者の一人であった高橋章氏が、幸いに残留していた舞装を目にするにつけ再々興を計り、保存会の設立と後継者の育成に努め、今日の滝沢流南部神楽となった。
構成は、大太鼓一名、手平鉦三名の合計四名。
曲目は、天の岩戸開き、天之叢雲の剣、八岐大蛇退治、水神明神ほか。
時期
旧暦の九月十日から秋祭りの時
所在地
登米郡迫町新田字糖塚